うにょら~堂

関東在住のへなちょこ社会人(バイク乗り、たけのこの里派)が思ったことや行ったところについて書きます。

庭仕事とは自然とのせめぎ合いである

 2年ほど前から親族所有の庭付きの家に住むようになりました。直近までは空き家だったおかげで樹木等は伸び放題。たまに所有者がお隣に迷惑にならない程度には刈っていたようですが、それも数年前が最後のお話。住むことになった時点では、庭木には樹形もなにもあったもんじゃない状態でした。

 

 引っ越す前、実家の庭いじりを長く手がけてきた母と二人でガッツリ枝木を切りました。庭自体は大した面積でもないのですが、ある程度すっきりさせるまでに丸2日を要し、90Lのゴミ袋をいくつもパンパンにさせました。こういう時母は袋みっちみちに枝葉を詰めるタイプなので文字通りはちきれんばかりのパツンパツンです。僕が真似しようとしてもだいたい枝が袋をぶち破るので真似できません。あのスキルなんなんだろう。

 そんな大剪定大会を執り行ったのは年末年始のこと。住み始めるのはさらにその後の6月からの予定なので、しばらくその家は空けたままになっていました。その空白期間真っ只中の3月頃、エアコンを更新しようと久々に家を訪れたところ、雑草たちがもはや草ではなく木じゃないかと疑うレベルのたくましさで地面を覆いつくしていました。覆いつくすどころかその背丈は一部僕の目線の高さを超えていました。生命あふれる春先、それまで頭上で日差しを遮っていた樹木たちをちょうど人様が大胆に排除してしまった為に、地面レベルの諸活動が盛んになってしまったようです。年末年始にはあんなに頑張ったのにこの仕打ちはなんなんだと雨の中半泣きでずぼずぼと春の草たちを引き抜き、翌週のエアコン工事に最低限支障がないよう通路を開墾したのを嫌というほど覚えています。覇権を握っていた悪を鎮めると別の悪の勢力が跋扈する。こんなくだりブラックラグーンにあった気がします。

 

 会社と家を往復するだけの平日においてはかろうじて天気くらいでしか自然の存在を感じていないような人間(僕)は、片手で握ってすんなり抜けるくらいの雑草ならいざ知らず、雑草を超越しかき分けて進む事すらままならない藪に相対した時、その生命力におどろおどろしさを感じ、恐怖さえ覚えます。ハルジオンなんかは腰ぐらいの高さでも既に嫌です。あいつら伸びるの早いし茎もやたら太いし葉っぱも我が物顔でびろーんってしてるんだもの。雨の中の開墾作業も、雨によるみじめさと同じかそれ以上に、草に対する怖さが涙を誘いました。

 そんな庭の開墾作業は住み始めてからも半年ほど続きました(庭の各所にひしめく人工物の片付けもかなりの割合を占めていましたが)。樹をより管理しやすい高さに切ったり、混みすぎた枝を間引いたり、ツバキ科の樹たちに湧いたチャドクガの駆除をしたり(春)、ひっきりなしにスポーンし続ける雑草たちを抜いたり、チャドクガの駆除をしたり(秋)。そんなこんなの甲斐あって翌年の春あたりからはようやく、開拓ではなくメンテナンス程度の介入で済むレベルに落ち着いています。これでも積極的なガーデニングにはほど遠く、防犯・ご近所・衛生的に問題ないように維持管理しているだけなので、より広い庭で、よりコンセプトを持った庭作りをしようものならその労力は計り知れません。

 

 庭作業をしていると、否応なく季節の移り変わりにとても敏感になれます。作業中の暑さ・寒さ、花が咲いた、芽が出た、枝が伸びた、紅葉した、実がなったと週末庭に出るたび何かしらの動きがあります。特に春〜初夏にかけては雑草たちがぐんぐん新登場しますが、毎週のように登場する顔ぶれが変わります。特定のエリアで覇権を握っている雑草の種類と生長具合を見るだけで、最後に手を入れた時期がなんとなく分かるまであります。

 

 

 ところで先程からずっと雑草雑草言っていますが、雑草という名の植物は無いとはよく言ったもので。庭として管理の手が入る以上、そこには人間目線の植物に対する差別が発生しています。「こいつを元気に育てよう」「あいつはこれ以上大きくならないようにしよう」「この辺みんないらない」などなど。むしろ、庭仕事において手入れとは差別とほぼイコールな営みです。人様は、庭に芽生えた生命たちに、等しくその場で天寿を全うする権利など与える気が毛頭ありません。まともに競争できる機会すら用意しません。気分次第では移植してきた奴を優遇するぐらいには我儘です。僕は野放しになって生い茂った草に恐怖を覚えつつそれらを引っこ抜き、管理しやすく望み通りの樹形に剪定した樹に安心感を抱き、「庭がすっきりした」と満足げに家の中へ戻ります。

 

 庭よりはるかにデカい規模の話をすれば、人類が必死こいて山々を切り開き造った道路や、森の中に丁寧に整備した登山道があることではじめて僕は自然と人工の境界(の人工側)に立ち、かろうじて自然のありようを垣間見ることができます。そして、垣間見る程度の接触はできても、これ以上互いに大きく踏み込んだ交わり方はできないのでしょう。バイクを走らせて舗装路を進み、人里離れた展望台に到着し、手つかずの自然を見渡してうわああああああすげええええここ好きいいいいいいいいいいいとなっても、じゃあそこに住みますか住めますか住みましょうよと言われても別問題なわけです。関越道を100km/hで走って来られたバイクだって、眼下の原生林をそのまま突き進むことはできません。僕だって旅が終われば関東平野の人里ど真ん中の我が家に帰って寝たいです。特定のスキルと精神力を持った一部の方を除けば、大半の人々がまともに関われる自然なんてそんなレベルなんじゃないかと思います。足触りの良い砂浜に立ち波打ち際でちゃぷちゃぷ遊ぶだけで「きのう”海”へ行ってきたんだ」と話す僕らは深海の出来事を何一つ知りません。ありのままの自然に自分が身一つで馴染めるなんて勘違いをした日にはあっさり身を亡ぼすことでしょう。

 

 そういった、決別もできないけれど深くも交われないつかず離れずの状態を、悲観する気も非難する気もないけれど、無自覚でいることは避けたいな、と庭をいじりながら思ったというお話でした。たまに自然の方がずいっと顔をのぞかせてきたり、あるいは我々の方がうっかり自然にこんにちはして、庭の草ボーボーやチャドクガとは比にならないレベルの災難が起きるのは人間の営みにおいて不可避でしょうから。